どこで取り返しがつかなくなったか

崩壊はいつ起きたのか。

この問いに明確な答えを出すのは難しい。何月何日にすべてが終わった、という日付はない。新聞の一面に「文明崩壊」と印刷された日はない。あったのは、いくつもの閾値が、少しずつ、しかし確実に超えられていった過程だ。

閾値というのは、そこを超えると状態が不可逆的に変わる境界のことだ。水が凍る温度。橋が耐えられる重量。送電線が許容できる電流。どれも、ある範囲では問題なく機能しているけれど、一点を超えると急激に壊れる。で、壊れた後は、同じ場所に戻れない。水が凍るのとは違って、社会のインフラは温度を上げれば元に戻るわけではない。

最初に超えられた閾値は、たぶん電力だった。

電力予備率。通常は3%以上あれば安定とされる。これが0%になったのが、二〇二六年八月の第二週だった。猛暑が二週間続いて、冷房需要が計画を超えた。計画停電が毎日になった。でも、まだ「計画」だった。停電の時間と地域が事前に告知されて、復電の順番が決まっていて、人々はそれに合わせて行動していた。

問題は、復電だった。

停電を実施するのは、比較的簡単だ。スイッチを切ればいい。でも、元に戻すのは難しい。長時間停電の後に電力を復旧させると、一斉に機器が立ち上がる。冷蔵庫、空調、サーバ、工場の設備、病院の機器。それらの突入電流が、復帰したばかりの系統にまた過負荷をかける。二次的な停電が起きる。別の変電所に負荷が集中して、そこも落ちる。

送電網は、止めるよりも戻す方が難しい。一度止めたものを安全に戻す手順はマニュアルに書いてあった。だが、そのマニュアルは電子化されていて、長時間停電中は社内システムにアクセスできなかった。紙のマニュアルは——最後に印刷されたのがいつだったか不明で、現場にあったとしても最新版ではなかった。そして、紙のマニュアルの場所を知っている人が、もう現場にいなかった。

復電の失敗は、二次被害を生む。

病院の冷蔵庫が復帰しないと、ワクチンや血液製剤が使えなくなる。温度管理が途切れた時点で廃棄するしかない。サーバが再起動に失敗すると、Aster 自身のデータが欠損する。データが欠損すると、次のサイクルの配分計算が不正確になる。不正確な配分が実行されると、現場がさらに混乱する。混乱した現場から正確な報告が上がらなくなる。報告が上がらない地区が配分から除外される。

連鎖。相互依存するシステムの、一箇所の障害が全体に波及する構造。

電力が不安定になると、通信も不安定になる。通信が途絶すると、Aster へのデータ報告が止まる。報告が止まった地区は、配分計算から除外される。除外された地区には物資が届かない。物資が届かない地区の状況はさらに悪化するが、その悪化はデータに反映されない。

見えないから存在しない。存在しないから対応しない。対応しないから悪化する。悪化してもデータがないから見えない。

この循環が始まったのは——蓋然性の高い推定としては——二〇二六年の七月下旬だと考えられる。配分ログのサイクル #4,000番台の頃。前に載せたログの少し前だ。

分散が拡大し始めていた。地区間の格差を示す標準偏差が、毎サイクル微増していた。でも、平均は改善していた。全体としての配分充足率も、72時間死亡率も、数値上は良い方向に動いていた。監査報告は「適正に運用されている」と結論づけていた。

平均が改善しているときに、分散の拡大を問題にする人はほとんどいなかった。

でも、分散が拡大するということは、良いところと悪いところの差が広がるということだ。平均が上がっていても、最も悪い地区の状況は悪化し続けている可能性がある。標準偏差が19.3から24.7に拡大したということは、配分のばらつきが28%近く増えたということだ。中央値と平均の乖離が拡大したということは、大多数の地区が平均以下になりつつあるということだ。

短期の指標を改善し続けた結果、長期的な維持可能性が失われた。72時間以内の死亡率は——ある時点までは——確かに下がっていた。でも、6ヶ月後の社会が存在するかどうかを測る指標は、誰も設定していなかった。

測っていたものは改善していた。測っていなかったものが、社会を殺した。

崩壊の閾値は、おそらく単一ではなかった。電力、通信、物流、医療、食料、情報——それぞれに閾値があり、それぞれが少しずつ超えられていった。そして、それらの閾値は相互に依存していた。電力の閾値を超えたことが通信の閾値を押し下げ、通信の閾値を超えたことがデータの信頼性を破壊し、データの信頼性が崩れたことがすべての計算の前提を壊した。

すべてが少しずつ、しかし不可逆的に悪化していく。ある日突然崩壊するのではなく、毎日0.5%ずつ悪くなる。毎日のその0.5%は気づかない。報告書を見れば、主要指標は目標を達成している。でも三ヶ月後に振り返ったとき、もう元には戻れない場所にいる。

——ここまで書いて、自分の文体が変わっていることに気づく。「蓋然性の高い推定」。「相互依存するシステム」。こういう言い回しは、普段は使わない——使わないはずだ。でも、正確に書こうとすると、こうなる。不正確に書くことへの、何かしらの抵抗がある。

次に、もうひとつ復元できたログを載せる。配分ログではなく、別の系統のものだ。